知識とは座標

芦屋から箕面までバイクで帰る…。 

夜中の交通量も殆ど少ない時間だと、何も考えずにマイペースで走れるから気持ちが楽。
これが、梅田へ行く…という事になったら、きっとバトルモードになっちゃう。

芦屋~夙川~西宮… 武庫川を越えて 尼崎~伊丹~池田~箕面

こう見ると、6市を跨いで移動しているというのも凄いな!と思いますが、実際は15㎞もありません。新御堂で梅田良くのと大して変わらないのです。

さて、そんな芦屋からの夜中の帰り道。
時間にして、数十分程度 それは色々と考える時間になるのです。
誰にも縛られない、自分だけの時間。

この前考えていたのは『知識とは何か』という事でした。

知識は何か?… ん~~座標かなぁ。

捉え方によって、色々あると思いますが、自分自身と会話していて直ぐに出ていた答えでした。
もっとも、こんな事を普通の人に言っても、きっと (‘A`)はっ?何が? って言われると思う。

でも、今、ウェブクラスのビデオのエンコード中で、何もできない待ち時間だからちょっと書いてみる。ここからは、私のバイク運転中の頭の中という感じの内容です。

人と動物の根本の違いとは何か

人と動物の違いは何か… という事を言うと、よく聞かれるのは『道具を使える』という答えが多いかもしれない。でも、私はそうとは思わない。
チンパンジーでも、普通に道具を使うし、ヤドカリだって、貝殻という道具を使う。
自分以外の物体を自分の利益の為に利用するという行為は、何も哺乳類にとどまらず、魚でも、虫でも、それは存在するから。

私の答えは『知識・知恵の継承』と言える訳です。

動物による知識の継承とは、DNAや変異による環境順応性による遺伝的特徴によって知識を継承する。だから、世代交代のスピードが進化のスピードの速さという事になる訳です。
それは、非常に何千・何万時間の中で少しづつ変化をしていく事で時代に合わせ情報を伝達していくという方法しかありません。 生きる為に。

しかし、人間は 壁画による画像情報・ 文字というテキスト情報・経験という体験情報等、様々なツールと方法を使い、混在する情報を必要に応じて取得し、それを継承し、残し、本や音声…様々な方法と手段を使って、外部記憶に残しておく事がデキる。

これが、根本的に異なる部分だと思っています。
道具が使えるというのは、その知識の中で生み出された1つの副産物であって、その大本には、火をおこす方法となる知識を継承できたからに他ならないのではないかと思うからです。

多くの知識、それは古くも、新しくも、そして進行形ですら容易にアクセスできる。
一番わかりやすいのが、インターネット だと思って下さい。

知識とは情報

知識とは情報。情報化社会とは知識の社会。とも言いかえる事ができます。
その知識には勿論、クォリティーの高いモノもあれば、低いモノもあります。
全ての知識が有用という訳でもなく、トラップもあります。

地球を覆う海中ケーブルによって世界中のネットワークにアクセスできる恩恵は、インターネットがなかった時代と比べて、一気に社会変化が起きましたよね。
昔は、その知識を得る耐えに、遠く危険な思いをしながら旅にでた事もあったでしょうが、今は1秒もかからずにアクセスできます。

頭の中で勉強している時でも、同様に 学んでいく過程の中で、これが一体何の役に立つのかわからない…という事がありますが、全体像を見えてきたら、あぁやっといて良かったという事は多々あります。

そこに時間軸を追加すれば、皆さんも、昔 子供のころにもっと勉強しとけばよかった…と思うでしょう?

もし、子供のころに、大人の知識にアクセスできれば…
そして、そのアクセスするに値するだけの人間性と理解力があれば、可能だったはずですが、子供の内は、学ぶよりも、目先の快楽に行ってしまう…だから、本当は大人の知識を自由に取り入れあっれるはずなのに、子供はそれによるメリットを知らないから、それをしたがらないけれども、そこに気づかせて上げれたら、もっと学ぶ事が楽しかったように思うし、下らない年号や公式を覚えて点数だけで評価されるというようなのが勉強…という事で勉強嫌いでもなかったかもしれない。

非常に勿体ない時間を過ごしてしまうんだよなぁ。・・・と

勉強する(未知の知識にアクセスする)という事と、ネットを徘徊する事と、実質的な違いなんてないんですから。
ネットばかりみて、勉強しないというのは、勉強というものを、非常に面白くないモノにしている大人の責任とも言えます。

これは大人でも同じですよね。
目先の問題だけ解決したら、他は勉強しなくていいや…となるでしょう?

知識を得る・学ぶ事によるメリットとは

話を戻しますが、知識というのが、空間的、時間的な、とある座標にあるモノであれば、知識を得るという事は、その座標に自由に移動できるという事です。
座標とは、空間内の点ですが、 点と点をつなぎ合わせていくと、そこには『面』が生まれ『立体』が生まれて『空間』が出来上がります。
そして、そこに時間軸の座標が追加されていくると『次元』を形成します。

その 次元・空間 を自由に飛び回れる… 肉体をもって自由を飛ぶのは鳥しかできませんが、知識を得る事もまた、空間を自由に飛び回れる事になります。

例えば、ワイン 1つにとっても、 知識がなければ、ただの ぶどうを絞ったアルコール飲料 ですが、その品種・それを蒸留する過程、農家の人達。さらにその農家の家族の事…いろんな情報が頭に入って飲む ワイン というのは、同じワインであっても、感じ方も 心に響く度合いも全く違います。
それは、知識を持っている人間だけの特権とも言えます。

この世界という、非常に小さな空間ですら、人が一生かかっても抱えきれない程の知識・座標が存在し、全てを回る事はできません。

夜空に輝く星を見てみてください。
あの星の1つ1つに、さらに膨大な『知識(座標)』が存在する訳です。

私は中学正の時、この世界の理(ことわり)を理解する事に、ずっと頭を使ってました。
だから、理科が好きなんです。
学校で配られる理科の教科書は1日で読破して、後はずっと外を見て世界の仕組みを考えていました。教科書から得られる理科の知識の薄さでは、何も得るモノがなかったと感じたからです。
少し考えれば分かる事を、なんで延々と教師の話を聞かなきゃいけないんだろう?という感じ。

それでも、勉強しなくても点数は取ってたから、いいよね(理科だけは・・・)
本職じゃないけど、自分で自由に情報にアクセスできる歳になって、宇宙・量子力学を学びながら、原理原則を学び、学校のレベルではなく、大学の研究室や研究所のデータにアクセスできるようになって、一気に跳躍しました。
それはとても心地よいですが、それで食べていく訳でもないし、直ぐに限界が来てしまう。
つまり、まだ実験がされてない… 大人の本気でも分からないという壁に突き当たる訳です。

研究にはお金がかかる。直接的に生産的でないものに予算を回すには限界がある。
だから、頑張れ! 科学!とは思う。

そして、時間や空間の限界もある。
未だ、人はやっとこさ、太陽系を出た~! レベルにしか物質を飛ばせない。

夜空に見える星々の座標までも、まだいけない。
仮に、行けるとなると、次に問題になるのは「死」を意味することになる。

例えば、アンドロメダ星雲まで行こうとする。
でも、それは同行しないのなら、(家族を地球に残すなら)もうその人達とは二度と会えない。
早く帰ってくるね!といっても、自分にとっての10年後は、地球にとっての100年後 という事になる。

時間を超越デキない。だから、目の前に座標が見えていても、そこにアクセスできない。

あぁ。。。なんかこんな肉体に留められて、地上から離れられないって、まるで牢獄の足かせと同じだなぁ…。
自由に座標にアクセスできたら、凄く楽しいのに…。

なんて事を考えてると、箕面に着くのでした…。

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